テレコラ、今日も書いてます。注)独断と偏見で、ドラマレビュー等からドラマをレビューしたブログ紹介等になることがあります。

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2007年後半目次

「今日のテーマは、はい、ご覧下さい。YS-11。はい。これは戦後ですねー。国産が、で、初めて作った旅客機です。」

<西武新宿線 航空公園駅関連ページ>
ウィキペディア

「昭和の風景を求めて 航空機復活にかけた男たち」

戦争中、世界を席巻した日本の戦闘機。かつて世界有数と言われた日本の航空機産業。(番組では、飛燕・雷電・零戦の写真が流れていました。)


BeautyFactory//ホビープラザ ビッグマン//フロムハンド

しかし、その伝統は敗戦と伴に、全て失われることになりました。その技術を平和の空に取り戻したい。失われた翼を再び羽ばたかせることは、技術者、そして多くの人々の夢でした。敗戦から17年。戦後初の国産旅客機として、日本の空を飛んだ、YS-11。そこには様々な葛藤と努力があったのです。

(塩原さん)何としても日の丸飛行機をね、いい飛行機にしたいという熱情があってね、それでもって、いい飛行機になった。

そこで今日は、日本の空に日本の翼を取り戻そうとした、YS-11にかけた技術者たちに昭和を訪ねます。

ちいさんが向かったのは、日本航空史にとって記念すべき場所。

「昭和の風景を求めて 日本航空発祥の地」


ホビースト


ごーーぉ。

「やるもんだね。日本の自衛隊も。」

ちなみに、同じ機種でドッグファイトをやらせたら、イスラエル、日本、アメリカの順に、戦闘能力が高いという話しもあるくらいです。

「こんな近いところで、ヒューン!そんな近かねーか!」


海外ゲームのGDEX

日本初の飛行場があった所沢。それを記念して作られた、所沢航空発祥記念館は、実際に空を飛んでいた航空機を見ながら、飛行機の歴史を知ることができる施設。(明治44年、所沢に日本初の飛行場が誕生し、以来、”日本の航空発祥の地”と、位置づけられました。)

「ほとにー、1903年だって。まだほんとに、そんなに、歴史のあるもんじゃないなー。」

ライト兄弟が1903年(明治36年)に、人類初の飛行機による有人動力飛行に成功しました。

「ま、人がそのー、羽をつけても飛びたいという思うのは分かるし、鳥なんか見て、いいなーと、思うときあるのはさー、こう優雅に上からズーってこう、好きなときに、シューっと降りてったりさー、あたり前か・・・。ハッハ、ハッハ。でも、それが人間の夢だったんだもんねー。」

<ライト兄弟関連ページ>
WETWING.com=飛行機のホームページ//TOP
<所沢航空発祥記念館関連ページ>
所沢航空発祥記念館関連//TOP


e-元気ワールド

「昭和の風景を求めて 航空機復活にかけた男たち」

日本における初飛行はライト兄弟に遅れること7年、明治43年のことでした。(日本では1910年(明治43年)に3200メートルの初飛行に成功しました<アンリ・ファルマン機>。)

<アンリ・ファルマン機関連ページ>
ウィキペディア
博史の昭和・青春グラフィティー//TOP

昭和に入ると、様々な戦闘機の開発で、世界有数の航空機大国になった日本。しかし、敗戦によって航空機の生産、研究、実験は全面禁止。その全てが失われました。(GHQによって、昭和20年~27年の7年間に渡り、航空機の製造が全面禁止されました。)

いつかまた、日本の空に日本の翼を飛ばしたい。その思いを実らせたのが、”YS-11”だったのです。

<YS-11関連ページ>
日本航空機製造・YS-11//TOP
RJOS PHOTO CALLAERY//TOP


エレクパ

「飛行機に乗ってるという、この満足感と、それから、寝ようと思っても眠れないぐらいうるさいプロペラの音と、あーこれが飛行機だなっていう実感がすごくあって、僕らにとっては思い出深い青春の飛行機の一台という風になるけども、それがここにあります。」

YS-11(昭和40年初就航)、戦後初めて日本メーカーが開発した短中距離用の旅客機です。

「今日は久しぶりにこう、再開したというような感じだけど、こんな小さかったかねー。ねー、もっと大きく感じたけどねー。」

ちいさん、YS-11のそばまでやってきました。

(ちいさん)塩原さんは、YS-11とどういう関わりなんですか?
(塩原さん)。。。YSの設計ですねー。
(ちいさん)設計を。
(塩原さん)設計の始めから最後まで。

塩原竹治(78)さんは、元”YS-11”設計技術者でいらっしゃいました。

昭和32年に始まった国産民間機計画(昭和32年、輸送機の設計・研究のため、「輸送機設計研究会」が設立されました)。そこに召集されたのは、戦時中、戦闘機開発で名を馳せた、5人のベテラン(戦時中に戦闘機を設計した技術者数名)と塩原さんを始めとする、20代の若い技術者たち。しかし、禁止期間の空白は大きく、飛行機の設計を知らない若い技術者たちに、まずは飛行機を見せることから始まったといいます。前途は決して明るいものではありませんでした。

(ちいさん)先輩たちがおやりになってた飛行機のレベルと、入ったばっかりの飛行機に携わったことのない、塩原さんみたいな人が、こう、かなり、その当時、いっしょに組んだときに、摩擦というか温度差があったでしょ?
(塩原さん)あったと思います。はい。
(ちいさん)はー、ご苦労なされましたか?
(塩原さん)ええ。と、いうよりもね、多分先輩はねー、なんかこう全然なんていいますか、現場経験のないのをね、部下にして非常に困ったろうと。
(ちいさん)でも、意気揚々っていうか、やってみようと。この際だからちゃんとがんばってやってみようって、みなさん・・・。
(塩原さん)そりゃ、やるしかないっていうことで。ねー、先輩の背中を見ながら。

折りしも、時は東京オリンピックが決まり、日本を世界にアピールしようと、国全体が突き進んでいた時代。国際民間機計画も一大プロジェクトとなり、航空機メーカー、「日本航空機製造」が設立。本格的な試作に乗り出します。(昭和34年、旅客機の試作・量産を行うため、「日本航空機製造」に開発が引き継がれ、世界一安全な飛行機を作るという考えのもと、部品の強度試験を繰り返し行いました。)

しかし、順風満帆とは行かなかったようです。

<日本航空機製造関連ページ>
ウィキペディア

(塩原さん)雨が降るとねー、みんな漏れちゃうんです。で、僕ら実用経験がないもんだから、そのための解消。。。じゃ、後で見ますから。。。

ここで、塩原さん機体の胴体、ちょうど入り口付近の丸いマークの入ったところへ近寄って行きます。

(塩原さん)例えば、これなんかはね。
(ちいさん)雨が降ると漏れちゃうっていうのは、何を?
(塩原さん)いやいやいや。漏れるっていうのは機体の中に雨が入りますから。
(ちいさん)あー!
(塩原さん)だからね、要するに、経験で分かったのはね、雨の入らないところはないなんて始め知らなかった。必ず入る。だから、その対策がいる、と。ね!いうことで、これなんかもね、

塩原さんさきほどのマークのところを再び指差しています。

(塩原さん)これは静圧口というもので、非常に大事なもんなんですけれども、始めはコックピットの前の方にあったんです。そこだと雨が入り過ぎてね、だめだと、ここに引越しました。

静圧口は、飛行機の高度をはかるのは気圧ですが、その気圧をはかるために使われます。赤い○マークの中に小さい穴が3つ開いています。そして、さらに、飛行機の先頭を左側にしたとき、その静圧口の向かって左側に、出っ張りがあります。

(塩原さん)それで、これ(出っ張り)なんかもね、何だと思います?これはね、雨よけなんです。
(ちいさん)雨よけ。
(塩原さん)向こうから、ターっと水が来ます。これ、ちょっとやっただけでね、こっからこう行っちゃいます。

出っ張りのおかげで、水滴が胴体から離れて、静圧口にかからなくなるという構造だそうです。

(ちいさん)あー、なるほどなるほど。ここは防げると。ある程度防げると。
(塩原さん)これは実際経験すると、こういう知恵が出るんです。

さて、二人は実際にYS-11の機内へと階段を上って行きました。

(ちいさん)久しぶりにYS-11に、乗せてもらいます。
(塩原さん)わたしも久しぶりでーす。
(ちいさん)うぁ~、こんな狭かったかしら?

総座席数60席、就航当時からエアコンや読書灯なども完備され、客室乗務員による機内サービスも、今と同じように行われていました。当時の東京→大阪間の料金は、6000円。YS-11に乗ることは日本人の憧れの一つでした。

<昭和40年就航当時の値段>
航空運賃:東京→大阪間 6000円
鉄道運賃:新橋→大阪間 1170円
(※当時の公務員初任給は21600円)


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(塩原さん)ちいさんが乗られた飛行機はやっぱりこのくらい内装ですか?
(ちいさん)ええ。こんな、こういう感じだったと記憶してますねー。

機内の座席は、内側(通路側)が赤い座席。外側(窓側)が青い座席で統一されています。

軍用機開発が中心だった戦前の日本。旅客機を見たことすらない設計者や技術者がほとんどの中、快適な空の旅を実現するための試行錯誤が延々と繰り返されて行きました。(アメリカの安全設定の3倍以上を目標に、機体の疲労試験は世界でも例のない20万回以上行われました。)

さらに、開発を急ぐ理由もあったのです。

(塩原さん)東京オリンピックの聖火輸送に向けてね、あれを錦の御旗みたいにして、全精力をそれに集中してねー。
(ちいさん)ええ、そうですよねー。

そして、ちいさん、その時の感動を聞いてみました。

(ちいさん)初めてこう、飛んだという、飛ばしたというようなことの、報国を受けたときはどんな風に思われました?
(塩原さん)飛ぶっていうのはねー、それぞれの分野はねー、みなさんががんばればね、これはうまく行くに決まってるから、飛ぶに違いないとみんな思ってる。

昭和37年8月30日(名古屋飛行場)、多くの人が見守る中、敗戦から17年の空白を埋めるべく、YS-11は初飛行に挑みます。日本の空に日本の翼が戻ってきたのです。

(塩原さん)飛ぶ前にいろんな試験やりますから。
(ちいさん)それは自信もあった。飛ぶのは間違いないと、みなさんで思われていた。
(塩原さん)飛ぶのは間違いない。ただね、ちょっと緊張してた。
(ちいさん)心配はなかったですか?。。。
(塩原さん)無論それは心配だった。

そして、昭和39年の東京オリンピック。聖火を日本全国へ空輸するYS-11の姿は盛大な拍手をもって迎えられました。日本の誇りとして。(東京オリンピックの聖火リレーで「聖火号」と名付けられたYS-11が聖火を日本宣告に空輸しました。)

<聖火号関連ページ>
模型はさらっと...//TOP


CD&DVD NEOWING

(ちいさん)その後の評判はって、実際、どーだったんですか?YS-11という飛行機は。
(塩原さん)エアラインの現場の方たちの意見を。。。それを一つ一つ直して行った。と、いうことでねー、いい飛行機になった。

昭和40年、羽田~徳島~高知線にYS-11が初就航しました。

実績のない日本の旅客機を知ってもらうためにと、世界各国で宣伝飛行を繰り返したYS-11。(アメリカ・南米・アフリカ・アジアと、デモフライトに出発しました。)

その信頼性は高く評価され、世界に認められる飛行機に。日本の航空機産業は復活を遂げたのです。(最盛期の昭和44年には月産3.5機となり、この年だけで、7ヶ国15社に納入しました。)

塩原さんにとって、YS-11にかけた思いとは?

(塩原さん)造船が過去がんばって、続いて自動車ががんばってましたよね。次は飛行機だと。みなさんね、ものすごいその、そういうそのファイトがあって、それで一生懸命やったと。で、なんとか物にした。ね!そうのが支えになったと。何としても日の丸飛行機をね、いい飛行機にしたいという熱情があってね、それでもって、いい飛行機になった。と、思ってますよ。
(ちいさん)あーー、やっぱりでも、我々にとって、YS-11ってのは誇りでもあったし、
(塩原さん)ありがとう。
(ちいさん)我々にとっても、戦後日本が経済力をつけてこれだけのものができるようになったんだっていう一種のほんとに誇りの飛行機ですよねー。そういうものがこう、あったことが、どんな日本人にとっても、こう、力になったかということが、僕らでもYSに乗ったっていう、未だにこう、話しになるわけですからね。

戦後初にして、唯一の国産旅客機、YS-11。不慣れな販売計画が原因となり、昭和47年に生産を終了したものの、その性能は誇るべきものでした。昭和が生んだ名機は、40年以上経った今でも、世界の空で、まだ現役で働き続けているのです。(全生産機数は182機。13ヶ国25社に販売。日本では昨年9月民間定期便最終フライトを迎えましたが、海外では6ヶ国19機がまだ就航しています。)

<販売先関連ページ>
日本航空機製造・YS-11

「いろんな意味でこの飛行機が経済効果として活躍した土台は大きかったと思います。その後、日本では旅客機を作るという行為がもう、できなくなってしまってるようですが、やはり、工業王国として君臨するのにはやはりこれからは、こういう世界に名だたる旅客機を作れる国でありたいと思うのは、僕だけでしょうか?」

誇り高き時代の遺産。あなたも昭和の風景を探しにでかけてみませんか?

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<YS-11ファイナル関連ページ>
夢・伝説 ~最終章~//TOP(ふろく旅行記)

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