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2007年後半目次
ちいさん、有楽町駅前にやって来ました。
「今日のテーマはダンスホールですねー。えー、わたし自身はほんとにダンスも踊れなくて経験もないんですが、かなり当時夢中になってダンスホールに、通った方もたくさんいらっしゃると思います。今日はそのダンスホールを通じて、昭和を訪ねてみたいと思います。」
ちなみに、ナレショーンは、今まで大熊英司アナでしたが、今回は松井康真アナに代わっています。
<有楽町駅関連ページ>
ウィキペディア
有楽町といえば、プランタン銀座。あんま関係ないか?

銀座 アール・ハート
「昭和の風景を求めて ダンスホール」
昭和20年、一つの歴史が終り、誰もが新たな時代の胎動を感じ始めた時代。それまでの抑圧の代償として人々が手に入れたのは、自由と華やかなりし文化。それは二度目の文明開化だったのかもしれません。鹿鳴館の時代に生まれ、戦争の余波に姿を消していたダンスホール。その再開と伴にやってきた一大ダンスブームは、新しい日本の姿そのものでした。それは誰もが自由に文化を謳歌できる時代の象徴でもありました。今日は、そんな昭和のダンスホールを訪ねます。

ホビースト
ちいさんが向かったのは都内でも数少なくなった、老舗のダンスホール。
「7階!」
ちいさん、そう言って、ビルの中へ入って行きます。
ピンポン、7階です。
エレベーターの自動案内がそう告げ、扉が開いた途端、華やかな装飾に満ちた別世界がちいさんの目の前に拡がりました。
(ちいさん)こんにちはー。どうも、向こうですよね。
ちいさん、受付の方へ向かって行きます。
(笠井さん)どうもいらっしゃいませ。
こちらは、東宝ダンスホール東宝ツインタワービル内)さんです。
<東宝ダンスホール関連ページ>
断片的、あまりに断片的な
(笠井さん)こういうようになってます。
ちいさん、ホールの方へ案内されました。たくさんの人が社交ダンスに興じています。
ダンス衣装&ドレスショップ mika//ダンスファクトリー
東京日比谷の劇場内にある、東宝ダンスホールがオープンしたのは、昭和44年(当時の入場料600円”現在は2700円”)。今では、都内に3軒しかないという生バンドが演奏する本格的なダンスホールには、社交ダンスブームが再燃したこともあって、現在でも年間、8万人以上が訪れるといいます。
迎えてくれたのは、学生時代に社交ダンスの魅力に取りつかれ、創業以来、ここでダンスの講師を務める笠井(笠井直臣、66歳)さん。(笠井さんは、東宝エンタープライズ専務取締役でいらっしゃいます。)
(ちいさん)僕は無粋というか、全然、このダンスホールという経験がないんです。ダンスも踊れないですし、僕なんかの先輩の世代に、僕は昭和17年生まれなんですが、昭和の一桁生まれぐらいの人で、例えば身近なところで言いますと、亡くなったんですが僕の兄貴がいるんですね。兄貴は大学時代に、東京に出て来て、かなりダンスホールに行ったという話しを聞いたりしたんですが、ダンスホールというのは、どういう流れから来たんですか?戦前からあったんでしょ?
(笠井さん)もちろんです、戦前からあったんですけれども、やっぱり、どんどんこれが浸透して行きましたのは戦後ですよねー。
日本におけるダンスホールの歴史は、明治16年に完成した鹿鳴館に遡ります。要人や外交官をもてなす社交場で、夜な夜な行われていた舞踏会は、上流階級にダンスブームを引き起こし、各地にダンスホールが作られるきっかけとなりました。
<鹿鳴館関連ページ>
ウィキペディア
しかし、昭和15年、戦時下にふさわしくないと、(ダンス)禁止令が出され、全国のダンスホールが閉鎖されることに。そして、終戦を迎えた昭和20年。姿を消したダンスホールは、進駐軍の慰安を目的に瞬く間に再開。そこにはかつての上流階級の文化を気軽に謳歌するアメリカ人の姿がありました。
(笠井さん)要は米軍が入ってきて、音楽に合わして彼らは何かがあると踊るわけですよ。だ(だから)、そういうところをみんな日本人は今まで抑圧されてたもんだから、そういうものを見ることによって、だんだんだんだんと、あーもー、こういうに楽しめばいいんだというようなことに、だんだんだんだん、盛んになって来たんだと、ね。
昭和21年、日本人専用のダンスホールが再開され、大衆のためのダンスとして活況を呈しました。
(ちいさん)やっぱり、楽しかったんでしょうねー、こういうとこへ来て、こう、
(笠井さん)そういうことですよねー。
(ちいさん)時間を過ごすのは、今までに、こう、抑圧されていただけに、解放されるというかー、自分を表現できるとか、そう、今までしちゃいけなかったことが、何してもいいみたいな。
(笠井さん)まー、そいうことですねー。戦争中に全てそういうものが拒否されていたわけですから。それが、時代、戦争が終わって、周りを見て行くうちに、自分でできることが、あるんだということをみなさん、感じるようになった。それでこういうところも、みなさんいらっしゃるようになったんです。
仕事場でも踊る職場ダンスという言葉が生まれたのは、昭和22年のこと。職場でもダンスサークルが作られ、「職場ダンス」という言葉も生まれました。
<職場ダンス関連ページダンス北海道イン旭川>
(その1)//(その2)//(その3)
ダンスファッション ミキヤ//MARINO
戦争から解き放たれた人々は、むさぼるようにダンスに熱中し、至るところで練習に励んでいたといいます。(昭和27年には、都内にはダンスホール3店、ダンスレッスンを行うダンス練習所が105店ありました。)
社交ダンスは全国各地で一大ブームとなって行きました。
(笠井さん)当時ですねー、そういえば、ペレスプラードなんていうバンドも日本に来ましたよねー。あのバンドが、マンボを流行らせたんですよ。マンボーナンバー・・・とかいっぱいありましてね、それで簡単な踊りですから、それで、バーっと爆発してったってところがあると思いますね。
ペレスプラード(1916-1989)---ルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズム「マンボ」を演奏しました。
<ペレスプラード関連ページ>
YAMHA//TOP

あめりかん・ぱい
ラテンの官能的なリズムに合わせて踊るマンボの大流行。ダンスホールの主流は、社交ダンスからマンボダンスへと代わって行きました。そのブームは当時の若者を熱狂させ、ファッションにも影響を与えるほどでした。
昭和30年、ラテン音楽のマンボウダンスが大流行、シンプルで動きの早いダンスでした。若者たちが、履いていた踊りやすい細身のパンツは、「マンボスタイル」と呼ばれて流行しました。(参考:マンボNO5♪、ベレス・ブラード//TOP"Melody of your heart")
<マンボスタイル関連ページ>
Picture on the Wall
そして、訪れた日劇ウェスタンカーニバルに代表されるロカビリーブーム(アメリカで生まれた音楽)。音楽に身を委ね、踊ることが特別なことではなくなって行った時代。ダンスホールも最盛期を迎えることとなります。(若者の間にロカビリーブームが起こりました。)
日劇ウェスタンカーニバル---昭和33年に第1回が日本劇場で開催されました。
<日劇ウェスタンカーニバル関連ページ>
日劇ウェスタンカーニバル
<ロカビリー関連ページ>
What Do You Feel?
わが国初のロカビリー・スター、小坂一也
EMI Music Japan ファミリークラブ//はぴねすくらぶ
(ちいさん)一番、数が多かったというか、そのお客さんが多いころはいつごろだったんでしょうか?
(笠井さん)やっぱり、昭和30年代、40年代。
(ちいさん)30年代、40年代。
(笠井さん)そうでしょーねー。そのころはねー、ともかく、ダンスってのは簡単なものでしたから、誰でも踊れるから行こうっていうことで、いっぱいお客さんがいらっしゃってる。例えば、ここのお店なんかでも、当時でだいたいそうですねー、週末ですと、700人、800人、週末に入りましたからね。そうなってくると、踊るというよりも、人ごみにもまれて、そこでこう音楽に合わせて動いてるような状況でしたけども、そのくらい盛んでしたねー。
毎週末には700~800人が来店し、年末には連日1000人が集まったそうです。
豊かさを実感するようになった高度経済成長期、都内だけで20店舗ほどあったダンスホールは、連日、踊りに来る人で賑わっていました。かつての上流階級のたしなみだった社交ダンスは大衆の娯楽へと姿を変え、昭和を象徴する一つの文化へとなって行ったのです。(昭和41年には都内に5店だったダンスホールも、昭和45年ごろには、20店近くまでになりました。)
(ちいさん)昼間、汗みどろになって働いている人も、夜、ちょっと、例えば着替え、着替えるっていうか、ちょっとおしゃれして、くれば、来れたわけですね。
(笠井さん)そういうことです。普段の生活とはまるっきりガラッと変わりますから、みんさん楽しんでらっしゃいますよ。ほんとに、普段の生活では考えられないような状況だと思いますけれどもね。
一歩、足を踏み入れれば、そこは誰もが主人公になれる優雅で甘美な世界。ちいさん、ここで、ホールの方へ見に行ってみました。熟年世代の人たちが、踊っています。バックでかかっている曲は、恋のバカンスです。(参考:歌のページ//TOP)
トレジャーショップ//ダンスファッション ミキヤ//e-dance item VIKI福岡
日本のダンス熱は、昭和50年代にブームを迎えるディスコにより転機を迎えます。ダンスフロアから若者の姿が消え、社交ダンスが愛好家のものへとなって行った時代。ダンスホールは再びその門を、閉じ始めました。その歴史を間近で見つめてきた笠井さんにとっての、昭和とは?
(笠井さん)ダンスホールそのものが、先ほど申し上げましたように、非常に華やかな時代でしたからねー、お客様がいらっしゃって、当時は、30年代ぐらいっていうのは、みなさん、今よりもずーっと、そのー元気があったんじゃないですかねー。遊びの中にも元気があって、今はもちろん、その元気がないとは言いませんけど、活力に溢れてたような感じがしますね。こういう、特にこういう場所の中では。要するにあまり、何ていうのかな?しばられるような人たちがここに来てなかったわけですよ。で、みなさんが楽しく楽しくということを、それがどんどんどんどん謳歌されて行った時代だと思いますねー。
<ディスコ関連ページ>
ウィキペディア
ディスコ Disco
戦争を契機にその存在意義を一変させたダンスホール。抑圧から解放された自由を全身で楽しんでいたあの時代の息吹は、今もこの場所に残っています。
「今日の昭和さんぽ、ダンスホールでしたけれども、今、お話をうかがった、昔はもう少しこう、ムーディーな中で踊った。今はこういう風にわりとこう、解放的に明るく、こういう風になっているそうですけど、僕の見たところ今日見る限り、お年を召した方もいらっしゃるようですけども、かなりこう、スポーツクラブのような、イメージで見るようになったん、見たんですが、これがやっぱり何十年も昭和という時代と伴に、今日もこういう風に元気に、こう、動いているというのはやはり、いいもんですよねー。わたしは一度も踊ったことがないんで、未だに、ここに立っていてもちょっと、照れくさくてじーっと見てられないぐらいなんか、照れくさいんですが、これは、考え過ぎなんでしょうかねー。はい。今日のちい散歩、ダンスホールでした。」
今も感じられるあのころの熱気。あなたも昭和の風景を探しに出かけてみませんか?
<ダンス関連ページ>
ダンス北海道イン旭川//TOP
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「昭和の風景を求めて ダンスホール」
昭和20年、一つの歴史が終り、誰もが新たな時代の胎動を感じ始めた時代。それまでの抑圧の代償として人々が手に入れたのは、自由と華やかなりし文化。それは二度目の文明開化だったのかもしれません。鹿鳴館の時代に生まれ、戦争の余波に姿を消していたダンスホール。その再開と伴にやってきた一大ダンスブームは、新しい日本の姿そのものでした。それは誰もが自由に文化を謳歌できる時代の象徴でもありました。今日は、そんな昭和のダンスホールを訪ねます。

ちいさんが向かったのは都内でも数少なくなった、老舗のダンスホール。
「7階!」
ちいさん、そう言って、ビルの中へ入って行きます。
ピンポン、7階です。
エレベーターの自動案内がそう告げ、扉が開いた途端、華やかな装飾に満ちた別世界がちいさんの目の前に拡がりました。
(ちいさん)こんにちはー。どうも、向こうですよね。
ちいさん、受付の方へ向かって行きます。
(笠井さん)どうもいらっしゃいませ。
こちらは、東宝ダンスホール東宝ツインタワービル内)さんです。
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断片的、あまりに断片的な
(笠井さん)こういうようになってます。
ちいさん、ホールの方へ案内されました。たくさんの人が社交ダンスに興じています。
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東京日比谷の劇場内にある、東宝ダンスホールがオープンしたのは、昭和44年(当時の入場料600円”現在は2700円”)。今では、都内に3軒しかないという生バンドが演奏する本格的なダンスホールには、社交ダンスブームが再燃したこともあって、現在でも年間、8万人以上が訪れるといいます。
迎えてくれたのは、学生時代に社交ダンスの魅力に取りつかれ、創業以来、ここでダンスの講師を務める笠井(笠井直臣、66歳)さん。(笠井さんは、東宝エンタープライズ専務取締役でいらっしゃいます。)
(ちいさん)僕は無粋というか、全然、このダンスホールという経験がないんです。ダンスも踊れないですし、僕なんかの先輩の世代に、僕は昭和17年生まれなんですが、昭和の一桁生まれぐらいの人で、例えば身近なところで言いますと、亡くなったんですが僕の兄貴がいるんですね。兄貴は大学時代に、東京に出て来て、かなりダンスホールに行ったという話しを聞いたりしたんですが、ダンスホールというのは、どういう流れから来たんですか?戦前からあったんでしょ?
(笠井さん)もちろんです、戦前からあったんですけれども、やっぱり、どんどんこれが浸透して行きましたのは戦後ですよねー。
日本におけるダンスホールの歴史は、明治16年に完成した鹿鳴館に遡ります。要人や外交官をもてなす社交場で、夜な夜な行われていた舞踏会は、上流階級にダンスブームを引き起こし、各地にダンスホールが作られるきっかけとなりました。
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しかし、昭和15年、戦時下にふさわしくないと、(ダンス)禁止令が出され、全国のダンスホールが閉鎖されることに。そして、終戦を迎えた昭和20年。姿を消したダンスホールは、進駐軍の慰安を目的に瞬く間に再開。そこにはかつての上流階級の文化を気軽に謳歌するアメリカ人の姿がありました。
(笠井さん)要は米軍が入ってきて、音楽に合わして彼らは何かがあると踊るわけですよ。だ(だから)、そういうところをみんな日本人は今まで抑圧されてたもんだから、そういうものを見ることによって、だんだんだんだんと、あーもー、こういうに楽しめばいいんだというようなことに、だんだんだんだん、盛んになって来たんだと、ね。
昭和21年、日本人専用のダンスホールが再開され、大衆のためのダンスとして活況を呈しました。
(ちいさん)やっぱり、楽しかったんでしょうねー、こういうとこへ来て、こう、
(笠井さん)そういうことですよねー。
(ちいさん)時間を過ごすのは、今までに、こう、抑圧されていただけに、解放されるというかー、自分を表現できるとか、そう、今までしちゃいけなかったことが、何してもいいみたいな。
(笠井さん)まー、そいうことですねー。戦争中に全てそういうものが拒否されていたわけですから。それが、時代、戦争が終わって、周りを見て行くうちに、自分でできることが、あるんだということをみなさん、感じるようになった。それでこういうところも、みなさんいらっしゃるようになったんです。
仕事場でも踊る職場ダンスという言葉が生まれたのは、昭和22年のこと。職場でもダンスサークルが作られ、「職場ダンス」という言葉も生まれました。
<職場ダンス関連ページダンス北海道イン旭川>
(その1)//(その2)//(その3)
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社交ダンスは全国各地で一大ブームとなって行きました。
(笠井さん)当時ですねー、そういえば、ペレスプラードなんていうバンドも日本に来ましたよねー。あのバンドが、マンボを流行らせたんですよ。マンボーナンバー・・・とかいっぱいありましてね、それで簡単な踊りですから、それで、バーっと爆発してったってところがあると思いますね。
ペレスプラード(1916-1989)---ルンバにジャズの要素を取り入れた新しいリズム「マンボ」を演奏しました。
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ラテンの官能的なリズムに合わせて踊るマンボの大流行。ダンスホールの主流は、社交ダンスからマンボダンスへと代わって行きました。そのブームは当時の若者を熱狂させ、ファッションにも影響を与えるほどでした。
昭和30年、ラテン音楽のマンボウダンスが大流行、シンプルで動きの早いダンスでした。若者たちが、履いていた踊りやすい細身のパンツは、「マンボスタイル」と呼ばれて流行しました。(参考:マンボNO5♪、ベレス・ブラード//TOP"Melody of your heart")
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Picture on the Wall
そして、訪れた日劇ウェスタンカーニバルに代表されるロカビリーブーム(アメリカで生まれた音楽)。音楽に身を委ね、踊ることが特別なことではなくなって行った時代。ダンスホールも最盛期を迎えることとなります。(若者の間にロカビリーブームが起こりました。)
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(ちいさん)30年代、40年代。
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毎週末には700~800人が来店し、年末には連日1000人が集まったそうです。
豊かさを実感するようになった高度経済成長期、都内だけで20店舗ほどあったダンスホールは、連日、踊りに来る人で賑わっていました。かつての上流階級のたしなみだった社交ダンスは大衆の娯楽へと姿を変え、昭和を象徴する一つの文化へとなって行ったのです。(昭和41年には都内に5店だったダンスホールも、昭和45年ごろには、20店近くまでになりました。)
(ちいさん)昼間、汗みどろになって働いている人も、夜、ちょっと、例えば着替え、着替えるっていうか、ちょっとおしゃれして、くれば、来れたわけですね。
(笠井さん)そういうことです。普段の生活とはまるっきりガラッと変わりますから、みんさん楽しんでらっしゃいますよ。ほんとに、普段の生活では考えられないような状況だと思いますけれどもね。
一歩、足を踏み入れれば、そこは誰もが主人公になれる優雅で甘美な世界。ちいさん、ここで、ホールの方へ見に行ってみました。熟年世代の人たちが、踊っています。バックでかかっている曲は、恋のバカンスです。(参考:歌のページ//TOP)
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日本のダンス熱は、昭和50年代にブームを迎えるディスコにより転機を迎えます。ダンスフロアから若者の姿が消え、社交ダンスが愛好家のものへとなって行った時代。ダンスホールは再びその門を、閉じ始めました。その歴史を間近で見つめてきた笠井さんにとっての、昭和とは?
(笠井さん)ダンスホールそのものが、先ほど申し上げましたように、非常に華やかな時代でしたからねー、お客様がいらっしゃって、当時は、30年代ぐらいっていうのは、みなさん、今よりもずーっと、そのー元気があったんじゃないですかねー。遊びの中にも元気があって、今はもちろん、その元気がないとは言いませんけど、活力に溢れてたような感じがしますね。こういう、特にこういう場所の中では。要するにあまり、何ていうのかな?しばられるような人たちがここに来てなかったわけですよ。で、みなさんが楽しく楽しくということを、それがどんどんどんどん謳歌されて行った時代だと思いますねー。
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戦争を契機にその存在意義を一変させたダンスホール。抑圧から解放された自由を全身で楽しんでいたあの時代の息吹は、今もこの場所に残っています。
「今日の昭和さんぽ、ダンスホールでしたけれども、今、お話をうかがった、昔はもう少しこう、ムーディーな中で踊った。今はこういう風にわりとこう、解放的に明るく、こういう風になっているそうですけど、僕の見たところ今日見る限り、お年を召した方もいらっしゃるようですけども、かなりこう、スポーツクラブのような、イメージで見るようになったん、見たんですが、これがやっぱり何十年も昭和という時代と伴に、今日もこういう風に元気に、こう、動いているというのはやはり、いいもんですよねー。わたしは一度も踊ったことがないんで、未だに、ここに立っていてもちょっと、照れくさくてじーっと見てられないぐらいなんか、照れくさいんですが、これは、考え過ぎなんでしょうかねー。はい。今日のちい散歩、ダンスホールでした。」
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Reg?:地獄郷 ??? でぃすとぴゅーとぴ 理想郷 ???????ディストピア出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 移動: ナビゲーション, 検索ディストピア(Dystopia)とは、デストピアあるいはアンチユートピアとも呼ばれ、理想郷ユートピアの正反対の社会である。
2007/10/24(水) 19:45:17 | ダイエット クッキー マイクロ 豆乳 食品