テレコラ、今日も書いてます。注)独断と偏見で、ドラマレビュー等からドラマをレビューしたブログ紹介等になることがあります。

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2007年後半目次


ちいさん、今日は南千住駅前にやって来ました。

「今日のテーマはリヤカーです。わたしこの番組で以前、そのリアカーを取材した時に、リヤカーってのは、リヤーなんですね。フロントと違って後ろ、リヤーのカーだから、リヤカーだってことを覚えたのはこの番組でした。はい!再度今日はそこへ行って、いろんなものをお聞きしてみたいと思います。」

<南千住駅関連ページ>
ウィキペディア

「昭和の風景を求めて リヤカー」

今年2月(南千住散歩、070205、月放送)、南千住を散歩している途中に出会ったリヤカー。

以下はその放映された一部分です。

(社長さん)サイドカーが入ってきて、人が乗るやつ。で、あれを見た日本人の発想のいい人が、自転車に付けようということを考えたんです。後ろだから、リヤーでリヤカーということになったんです。
(ちいさん)あ、リヤーは後ろのリヤーなんだ。


castleco//パピヨン

その昔、荷車の主流だった大八車と、海外からやってきたサイドカーをヒントに、日本で発明されたリヤカー。頑丈で小回りが効く上、人力で荷物が運べるリヤカーは、燃料不足だった戦前・前後の物流には、欠かせない存在でもありました。

リヤカーが働いていた昭和の風景を求めて、まずは、以前の散歩でお世話になったリヤカーの工場へ。

(ちいさん)ちわーす、どうもー!

ちいさんが、ムラマツ車両さんへお邪魔すると、すでに3人の人がリアカーの周りに集まって、働いていました。

(ちいさん)どうもいろいろ、いつも、お世話になってます。
(社長さん:村松孝一さん)。。。ご苦労さまです。
(ちいさん)また、お邪魔してすいませんです。

今や全国でも数少ないリアカーの製造から販売、修理までを行う、ムラマツ車輌。製造工程のほとんどが手作業というリヤカー。昭和26年の会社設立から、今も変らない昔ながらの姿は、二代目社長(村松孝一さん)となった現代にも引き継がれています。

(ちいさん)リヤカーってだいたい、いつごろから始まったんだっけ。
(社長さん)えーとね!実際に使ってる、世間に、登場するのは関東大震災の避難してる人が使ってるんですよ。ってことは、大正12年ですから、どうもいろいろ調べてみると、10年ごろ量産されたんじゃないか?って、
(ちいさん)大正。

大正時代に東京秋葉原(ちい散歩SP”070503”その2)で生まれたと言われるリヤカー。街でみかけるようになるきっかけは、関東大震災だったと言います。(負傷者の搬送・家具の運搬・瓦礫の除去などにリヤカーが利用されました。)

それ以来、燃料のいらない便利な荷車として、物流の大きな役割を担って行くリヤカー。戦前から戦後に至るまで昭和の街角には、リヤカーで荷物を運ぶ風景が、ごく自然に溢れていました。

(ちいさん)これ、リヤカーが一番、最盛期っていうか、その頃は相当、台数作ったもんですか?
(社長さん)そうですね。一日やっぱり、15台ぐらい作ってる時ありましたから、僕まだ、子供でしたけれど。それだけ、やっぱり有効な搬送道具として、使われていたということでしょうね。

昭和30年頃には、月に500~600台を生産していました。

(ちいさん)すごく今思ってもこれ便利なものだったし、人間の力でけっこう運べる重さとしては、相当のものを運べたし、
(社長さん)そうですねー。
(ちいさん)運こんでいたし、これを増して自転車に括りつけて、けっこう、これに野菜なんかいろんなもんをたくさん積んでく、ぐいぐい引っ張って行く親父さん姿、ずいぶん見た覚えがあるんだけど、
(社長さん)あの頃の方がなんか、時代が力強かった気がしますよね。
(ちいさん)そーだよねー。

載せて運べる重量は、何と500キロ~700キロ。今となってはあまり見かけることもなくなった、荷台からあふれんばかりの大荷物を載せて、街中を大来するリヤカーの姿は、当たり前の風景でもありました。

(ちいさん)こういうとこにこれ何だか知ってる?これ。

ちいさん、リヤカーの両端にいくつかついた、金属の突起を指差しています。

(ちいさん)ロープをかける時にね、ここにじかに縛るよりこういうとこにロープをかけて、こーやって、で、ここにまたロープをかけてこっちにこうやってやれば、上のものが落ちないってなるわけ。で、そういう風に言うとすごくこれ、理にかなってて、これは、これなんかも何でもなくしてあるようだけど、


プロ工具にDIY モンジュSHOP

ちいさん今度はリヤカーの荷台の下の一番先の方についたポールの説明です。

(ちいさん)これはこれでリヤカーを、パタンとしたときに、これ以上、ガタンと来ないための、すごいやっぱり理にかなってる。

つまり、このポールはリヤカーを押すのを一休みした時に、傾かないようにするスタンドのようなものです。(リヤカーが前のめるになるのを防ぐポールです。)

(ちいさん)で、子供の遊び道具でもあったんですよ。いわゆる大人が使わないときには、ここに子供達ばっかりで乗ったり遊んだりなんかしたりしたんですけど、板のこういうに箱になってるもんだから、子供はみんな乗ってさー、はい、海行くよー。

ちいさん、リヤカーを引き出しました。

(ちいさん)ハハハ、みんな、小学校の低学年の子供から、幼稚園みたいのまでみんな乗っけてさー、みんなでこれ、海行ったりすんだよ。こうやって。いいもんだよ。

ちいさん、懐かしいんでしょう。いつまで経ってもリヤカーを放しません。

アイディア一つで様々な用途に使われたリヤカー時にはお店の代わりにもなっていました。かつて、街のあちこちで見かけたリヤカーの屋台。これもまたその活用法の一つ。今の現役で活躍するそんな屋台を訪ねました。


セミプロDIY店 ファースト


「昭和の風景を求めて リヤカー」

十条銀座商店街にちいさんやってきました。

「あー、いらっしゃいましたねー。おでんやさんですよ。」

ちいさんの前方には屋台のおでん屋さんがありました。

(ちいさん)おやっさん、これ、自分で運んでくんの?
(ご主人)自分で運んでくる。
(ちいさん)けっこう、これだけ屋根もついてたりしたら、重いでしょ。
(ご主人)あー、けっこう思いねー。

リヤカーを引き続けて44年。23歳からリヤカーで屋台を始めたという板垣克明さん(67歳)。中華そばに始まり、焼き芋を経ておでんを扱うようになったのが、30年ほど前。現在のリヤカーが6台目になるそうです。


徳島ラーメン一眞//金沢屋 別館

(ちいさん)じゃ、僕ねー、タコとはんぺんとこんにゃくをもらおうかな?

ちいさん、はんぺんが欠かせません。そのはんぺんを一口。

(ちいさん)いただきまーす。おー何とも言えないこのー懐かしい昭和のなんかうるると来そうな、味だよ。

ちいさん、うれしそうです。今度はタコです。

(ちいさん)うん。昔僕ら子供の頃、こういうおでんだったなー。

ちいさん、ご主人に聞いてみました。

(ちいさん)おやっさん。この味は、昔から変わんないでしょ。
(ご主人)変えてない!
(ちいさん)変えてないでしょ。まさしくこのリヤカーのこの屋台と、マッチする味だなー。(おでん各種50円~200円)

この場所で商売を始めてから十数年。周りの風景は変わっても、その味とリヤカーの屋台だけは、今も変わらぬ街の名物。

(ちいさん)何でおやっさんリヤカーにこだわってきたの?
(ご主人)若いから、これないじゃない?

ご主人、指で○を作っています。お金がなかったので店が持てなかったということでしょう。

(ご主人)だからね、それで結局手っ取り早いから、始めたけど、金は貯まんない。右から左へ出てっちゃう。

ちょっと、淋しそうに語るご主人。

(ご主人)なんちゅうかなー、ただ、俺は坦々と仕事してるだけだからな。
(ちいさん)それがいいんだよ!それが大変なことなんだ。

ちいさん、ご主人の肩に手をやって、励まします。

(ちいさん)今でも、こうやって、おとうさんの味を求めて来るお客さんもいるでしょ?
(ご主人)そうね。今ね。もう嫁に行った人が子供連れてくるから。
(ちいさん)あー、これで最初食べてた人が、嫁に行ってお子さんができて、それで今度、子供連れてきた時にこれで食べるというのは、あ、それはでもうれしーねー。

雨の日でも心待ちにする人がいるからと、休みなく毎日リヤカーを引いてやってくる板垣さん。しかし、その一方で屋台は時代の流れに合わなくなってきたのかもしれない。そんな思いもあると板垣さんは言います。


小田原鈴廣かまぼこ//駿河うまいものマルヤス//あんしんの殿堂防災館


「昭和の風景を求めて リヤカー屋台」

ここで再び、ムラマツ車輌の社長さんにお話を聞きます。

(ちいさん)昭和何年ごろかな?衰退してきちゃったの。
(社長さん)あのね、昭和30年代の中ぐらいが一番ピークだと思います。それから、東京オリンピックにずーっと行って、そのころに、だいたい同じぐらいの歩調で車が出てくるんですよ。一生懸命自分の力で自分の速度で、やろうっていうのが少しづつ時代と共に、変化して行ったんじゃないでしょうかねー。

東京オリンピック直後から加速し始めたモータリゼーション。物流の主役はトラックへと変わり、スピードと効率が優先される時代の訪れと共に、リヤーカーは街角から姿を消して行きました。そんな中でも村松さんは道具としてのリヤカーの可能性を、模索していたと言います。


ブックガレージ//HOME1楽天市場店

(社長さん)ぼく、リヤカーを本気で考えたのは、タンザニアに技術協力行った時からなんです。

リヤカーが主役だったかつての日本のように、世界にはまだリヤカーを必要としているところがあるはず。経済援助プロジェクト(日本の外務省と国連が中心となり、タンザニアにリヤカーの生産設備を作るプロジェクト)に出合った村松さんは、タンザニアで設計から溶接まで、リヤカー作りの指導を行って来ました(平成2年:村松孝一さん、当時42歳)。昭和の風景が海を渡ったのです。

(社長さん)道のないこところを、物が運べるとか、人が運べるとかっていうことをして行くことによって、リヤカーのもともと持っていた力とか意味が蘇るかもしれないって気がちょっと、しましたのでね。
(ちいさん)社長にとって、昭和っていうのはどんな時代だったんですか?
(社長さん)20世紀って、とっても、数とか量、ま、量とスピードを求めて来たんですけれども、負の部分も置いてきちゃった。だけど、もう一度、見直さなきゃいけないっていう時代に入ってるなっていう認識はある・・・。

人が自分の力だけを使って必要なものだけを運ぶ。そんなごく当たり前の考え方が、昭和の時代にはまだ、残っていたのかもしれません。

「早い、急いで、たくさん、という風に時代から少し、リヤカーを使って、ゆっくり、のんびり、必要なものを、人間の力で運ぶところから次のところへ運べるということを、もう一度この機会に考えるのも、リヤカーを考え出すいいチャンスかもしれませんねー。」

リヤカーと伴にあった、のんびりとしたやさしい時代。時にはそんな昭和の風景を探しに出かけてみませんか?

<ムラマツ車輌関連ページ>
ムラマツ車輌


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