テレコラ、今日も書いてます。注)独断と偏見で、ドラマレビュー等からドラマをレビューしたブログ紹介等になることがあります。

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2007年後半目次

今年、65歳になるちいさん(昭和17年5月5日生まれ)が、生まれ育ち青春をすごした時代。昭和。昭和は日本の歴史の中でも最も、劇的な変化が続いた時代。戦争・敗戦・一面の焼け野原・懸命の復興、食べるものも少なく、誰もが生きるのに精一杯だったあの頃。その苦しさを乗り越えたからこそ、今の自分がある。そう語る人がいます。

<帝国ホテル:千代田区内幸町>

(ちいさん)やっぱり戦争の影響でしょうねー。
(小池幸子さん、64歳)はい。物のなさ。

小池さんは、定年後も特別社員としてVIPの対応をする帝国ホテルを代表するホテルウーマンです。

(小池さん)もう厳しい時代に、物を食べるのも兄弟で分け与えて食べきたというようなそんなところを乗り越えられてきたからじゃないでしょうか?

ちいさん、涙を拭いながら、小池さんの話しに聴き入っています。

(ちいさん)ほんとそうですね。

ちょっと、声がつまり気味のちいさん。

(小池さん)なんか、もう・・・。

小池さんも、ちょっと、もらい泣きです。

少しづつ暮らしが上向き、貧しいながらも、家族団らんの食卓に笑顔が戻った戦後。外食で生まれて初めての味に感激。そんな平和の素晴らしさを、舌で感じることのできた時代。その感激を今も味わえるお店がありました。


楽しみ食倶楽部 楽天市場店//雪江ハム//北海道産直味だより


<焦土と化した日本関連ページ>
Ameba Vision
<昭和30年代日本関連ページ>
コインの散歩道//TOP

<ビーフシチュー:中野・鍋屋横丁>

ちいさん、ビーフシチューを口に入れてみました。

「うん!おいしい!」

思わず、顔がほころぶちいさん。

「ちょっと、ごめん!」

涙もろいちいさん。言葉が続かなくなってしまいました。


ヨシケイ楽天市場店

誰もが何かを信じ、額に汗してがむしゃらに働いたあの頃。焼け野原はいつしか大都会に変貌し、日本は経済大国と呼ばれるようになりました。あの頃、人々支えていた熱い思いとは?

ミゼット:大田区南六郷

(ちいさん)何で頑張れたんだろうね。そんな貧しいのにねー。
(櫻井さん)そーですねー、やはりですねー、あこがれはありましたね。今の生活よりも少しでも、上向きになりたい・・・。

櫻井直幸さん、63歳。櫻井精密工業の社長さんです。大田区で町工場を経営する櫻井さんは、今もミゼットで資材を運んでいます。

豊かになったはずの現代。それでも、あの頃にあこがれを抱く人が増えています。昭和とはどんな時代だったのでしょうか?ちいさんが様々な人たちと出会い語った昭和散歩、今日と明日の2日間、特集でお送りします。

”あなたは覚えていますか?記憶の中のあの風景に、もう一度出会いたい。さー、昭和を探しに出かけましょう!”

<<ちい散歩くらぶ 昭和の風景 スペシャル>>

「舌で感じる昭和」

<昭和の食卓:渋谷区神山町>

地方への買出しや闇市。戦後人々は何よりもまず、食べるものの確保に必死でした。ちいさんの子供の頃の思い出は、当時の日本人の誰もが感じた共通の記憶。そんな思いを再確認したのは、昭和散歩第1回、魚屋兼定食屋(魚力)さんでの、こんな話からでした。

(ちいさん)戦後ね。戦後っていうか、小学校ぐらいの時はそう豊かではなかったでしょ?食べるものなんかも・・・。
(鈴木さん)うん。そうそうそう。

鈴木力(63)さんは、魚力の三代目です。そして、ちいさんの隣で2人の話しを静かに聞いているのが、二代目女将の鈴木恵さん(96)。

(鈴木さん)食べるものは困んなかった。でも、魚だけしか。
(ちいさん)あーーー、肉食べたかった。
(鈴木さん)肉なんか食べたかったですねー。
(ちいさん)たまには・・・。
(鈴木さん)それでわたしなんかでも、今でも思うんですが、わたし一番下なんですけどねー。上には姉が3人いるんですけど、一つのことがどん!と出るわけ、早いもんがちになってくる。
(ちいさん)そうですよ!そりゃ!
(鈴木さん)わたしなんか一番下だから、のんびりしてるとなくなっちゃう。
(ちいさん)これも、この話も面白い!俺んところも8人兄弟で、ましておばあちゃん、おじいちゃんがいて、居候するみたいな人がいて、僕は子供、ちっちゃい一番末っ子だったんで、今のご主人と同じ、テーブルに小さいわけだ、だから、上の大人たちがこういると、(目線がいつもテーブルの上に出すのが大変なので、)ちいさいところから一盛りしてるお魚でも何でも煮たら、大きな皿に一盛りするんだ、好きなだけ、好きな分、自分の分を取るんだけど、その時、大人の箸が、箸だよ!(頭の上を)こういう風に行き交ってんのを子供心に覚えてる。
(鈴木さん)だから、べらべらしゃべってると、なくなっちゃうからー、それで、どーしてもほら!上目で食べるじゃないですか。そーすると、親父がなんかばーっと怒られてね。飯食うときは下見ろ。お茶碗の中を見ないとこぼれるから、上目して食うんじゃないって言われて、良くやられましたよ。

ここでちいさん、ハンカチを出しました。

(ちいさん)なんか、俺、今日、昭和のコーナーになったら涙もろくていかんよー!

目頭を押さえるちいさんの後ろで、だまって微笑む二代目女将の顔が印象的でした。


小名浜港市場食堂

さらに、ちいさん、渋谷の古いお米屋(梅沢精米店)さんでも思い出を伺いました。

(ちいさん)初めて食べた昭和の頃ですよ。10代の頃に、これはおいしかったと思うもの、今でも食べてみたいなというようなものありますか?
(梅沢和雄さん、59歳)ねーさんが、高校時代の時だか、なんか学校で、料理の実習かなんかでハンバーグを作って、それでうちで作ってくれたんです。それがすげーうまかったなー、つううか。
(ちいさん)俺もそうなんだよ。俺は中学の時に、親父の車にのっけってきてもらって、親父が”俺が今から仕事する間待ってろよ!”って、言って運転手さんと共に、千葉の駅の前のデパートに入ってた、待ってた。そこで、運転手さんが、”何食べるの?おぼっちゃま。”おぼっちゃまと言われたんだけど、おぼっちゃま何食べるんですか?と言うから。”あ、いいですか?こっちで決めても。””お願いします。”って言ったら、ハンバーグが出てきた。そのハンバーグの味がまだ口に残ってて、今でも、あれを超えるハンバーグに会ったことはない。そーですよねー。
(梅沢さん)世の中にこんなうまいものあったかと思ってねー。
(ちいさん)ハハハハ、いいお話で。そうなんですよねー。


お米の専門店 神蔵屋//リーガロイヤルホテル メリッサ


<ビーフシチュー:中野・鍋屋横丁>

子供たちにとって、心躍るご馳走だったハンバーグ。戦後の昭和は、新しい味との出会いの時代でもありました。あの頃、洋食を初めて食べたのはデパートの食堂、と、いう方も多いのではないでしょうか?ハンバーガー、ステーキ、ビフシチューなど、戦後の昭和の味といえば、まずはお肉。と、いう方も。

昭和27年 大卒初任給 7650円(公務員)
ハンバーグ 130円
かけそば 17円

さて、ちいさんは、中野区で今も当時と変わらぬ伝統の洋食が味わえるこちらのお店(にっぽんの洋食 津つ井:現在休業中です)。ご主人が修行を重ね精魂込めて作った本物のビーフシチューを味わうことができます。

ちいさん、ビーフシチューの肉をひとかけら、口の中に含みます。

「おいしい!」

思わず、顔がほころぶちいさん。

「ちょっと、ごめん!」

涙もろいちいさん。言葉が続かなくなってしまいました。
そして、もう一口。

「ごめん、なんか・・・。」

ビーフシチューには、肉が3切れと、にんじんやじゃがいも、そしてブロッコリーが丁寧に添えられていました。

「我々の時代が、やっぱり食というか、食べるっていうものにどんなにこう一生懸命であったかということが昭和にはあったなと思って、今のこの食べるものが余ってる時代に、なんかその頃のこと、ふっと、思い出してたら、ジーンと目頭が熱くなった。と、いうことなんです。」

<にっぽんの洋食 津つ井関連ページ>
ぶらり途中下車の旅

おいしさと伴に込み上げてきた懐かしさ。たまにしか味わえなかったからこそ、とびきりおいしかったご馳走。次ぎのコーナーでも様々なお仕事の人たちと、苦しく楽しかった当時の思い出をたっぷりと語り合います。

「戦後の記憶」

一面の焼け野原から始まった戦後。そこに連合軍が進駐してきます(日本占領:昭和20年9月~昭和27年4月末)。誰もが貧しかったこの時代、豊かな進駐軍の兵士たちを相手に、商売を始める人々が生まれました。その一つが靴磨き。当時あまり働き口がなかった女性や子供たちが多かったといいます。実はこの靴磨きを85歳になる現在もりっぱに続けている女性(沢村チヅさん、85歳)がいました。

靴磨き:東京新橋

「あー、いらっしゃいました。」

ちいさんがやってきたのは、東京新橋にあるとある一角。そこでは、今でも靴磨きを生業とされている女性がいました。

(ちいさん)今も見せていただいてたんですけどー。もう、何年くらいこちらでやってらっしゃるんですか?
(沢村さん)昭和25年からですから、もう足掛け57年間、ここに座っております。

17歳で新潟から上京、結婚したものの、早くにご主人を亡くした沢村さん。靴磨きの収入で2人の子供を育てあげました。そのためには靴磨きの技も一流と言われるように努力を重ねました。

(沢村さん)それはねー、まず、お金いただく時に、お客さん払ってくださるときにね、高いなーと思われるような仕事だけはしないことにしてます。それだけ、心がけています。

(ちいさん)おかあさん長年ね、こういうこの仕事やってて、いろいろご苦労もあったと思うけど、良かったなーと思うことってある?
(沢村さん)そうです。もう、一度はこの仕事をやめようと思ったこともありました。子供が、学校へ入るようになったら、靴みがきの子だって、馬鹿にされ。。。帰って行ったら泣いてね、その時は切なかったですねー。。。父親に死なれて、子煩悩な夫でしたのでねー、それなのに、今度お母さんの仕事で子供が侮辱されてね、泣いて訴えるゆんだー、と思って、その時ほんとは辞めようと思いました。子供のためにねー。おかさんは社長さんと変りないんだからね、ほんと税金と(支払って)、許可証もらってね、働いてるんだからね。ちっとも恥ずかしいことないんだから、その子のお父さんの仕事がなくなったら、お母さんとこ来なさいって言いなさい。仕事教えてあげるから。って言いなさい。だから、泣くことないよ。。。
(ちいさん)なんか、涙が出てきちゃうよ。

ちいさん、目頭を押さえてます。

(ちいさん)でも、ほんとにそういうのつらいよねー。
(沢村さん)つらいんですよ。それでねー、”わかった”って言ってね、それから、泣くようなことなかったですよ。お布団入って子供が寝てからボロボロ泣きました。かわいそうにと思ってねー。

(ちいさん)おかあさんにとって昭和って時代はどんな時代だった?
(沢村さん)昭和は、わたしら波乱万丈でしたね。青春時代は軍歌で育ってきましたしねー。今は懐かしいけれども、振り返りたくない。。。大変でしたー。もう、毎日空襲に襲われてねー。そして、やっと、落ち着いたと思ったら、主人が今度そのねー、病気になり死なれてねー、昭和の時代はほんとに波乱万丈続いてきましたよ。これも運命だと思ってねー。いますけどねー。
(ちいさん)でも、おかあさん、良くがんばったね!
(沢村さん)がんばりましたの。だから今はねー、もう楽になりましたし、精神的にも。。。

戦後もしばらく経つと靴磨きのお得意さんは、進駐軍はスーツ姿のサラリーマンに。それは日本の復興を沢村さんが肌で感じた時でもありました。沢村さんの人生こそ、昭和の歴史そのもの。

「懸命に生きる人達・・・」

昭和30年代、日本は高度成長期を迎え、著しい発展を始めます。東京にはより良い暮らしを求め、地方から大勢の若者が集まりました(集団就職)。東京のそれぞれの町で暮らし働き続けた若者たち。彼らは、あの頃をどのように生きたのでしょうか?

<昭和の生き方:台東区東上野>

「あーー、これね。。。上野下アパート(台東区東上野:昭和4年竣工)。80年ぐらい前の。」

ちいさん、古いアパートのあるところへやってきました。建物は古いですが、センスは悪くないアパートです。

今や東京では最後の一棟となった同潤会アパート。このアパートの1階に昔ながらの理容室(理容室パリー)がありました。

(角田トクさん、70歳)テレビで良く見てます。
(ちいさん)あーそうですか?いばらぎか?(ちいさん訛ってます。)
(角田さん)おれ、ふぐしま!
(ちいさん)ふぐしまか!
(角田さん)わざと訛んのかってよ!
(ちいさん)アハハハ!
(角田さん)。。。わざともへったくれもねー。っつうの!

(角田さん)名前ばっかハイカラだってぇー。やってる人間、みんな田舎っぺなんだよぉー!

角田さんにおしまくれているちいさん。そして、福島訛りがマシンガンのように角田さんの口から炸裂しています。

福島で洋裁学校に通っていたトクさん。同郷だったこの理髪店の親方からの誘いに、理容師の方が、はやりすたりがないと決断し、昭和28年に上京。上京後、専門学校に通い、昭和30年、理容師免許を取得しました。修行はとにかく大変だったそうです。

(角田さん)いやーつらいってもんじゃない。逃げて帰っちゃったんだわたし。

角田守男さん(長男:44歳)がこの2人の横で、にこにこしながら、話しを聞いています。

(ちいさん)何が辛かったの。そんなに。
(角田さん)だから、それで仕事できねーから、後ろでちゃんとつっ立ってろ!って
(ちいさん)こうやって見てるわけだねー。親方のやんのー。
(角田さん)うん!それで、毛掃けー。。。これを立ってのがねー、足のここ(かかと)痛くて痛くて、それが痛いってゆえねーわけ。もう、ほれ田舎もんで。もう、いやー、こんなこともうやってれんか!つって、逃げて帰っちゃったの。

しかし、迎えに来た親方と再び上京し、一人前の美容師に。しかも、人柄を見込まれ嫁入り(昭和38年結婚)まで。

(ちいさん)今、どうかねー。この日本というか、東京というか、このみなさんの若い人たちは。
(角田さん)今はもう若い時代はさー、ちょっとやだとさー、パッと辞めた?
(ちいさん)そう!
(角田さん)お金の高いとことかって行っちゃうじゃないのー!
(ちいさん)違うよね。
(角田さん)やっぱり、信念をもってやり遂げなかったら、飯食えるようになんない!

<上野下アパート関連ページ>
Codan Walker//TOP
<理容室パリー関連ページ>
上野下通信//TOP


ダイレクト・ドットコム

成功を夢見て上京してきた若者たち、その中に、東京で伝説を築いた青年もいました。

昭和のラーメン:豊島区東池袋

「今日の訪ねるものは、これです!凄い人でしょー。ラーメンです。はい!」

今年3月閉店した東池袋大勝軒、元祖行列のできるラーメン店として、愛され続けました。

(ちいさん)ラーメンを始められた時にですね。昭和何年頃でいらっしゃいました?
(ご主人:山岸一雄さん、72)いまでいう。。。蒸気機関車でね。。。集団就職みたいな形ですよ。東京へ来て、まだ、16歳!中学卒業して、その春来たんだから。。。その時ねー。墨田の方で旋盤やってたんですよ。旋盤工。

(ご主人)会社の社長がね、ラーメン屋なんてね、若い男のやる仕事じゃない!って言われたんですよねー。


天使のやすらぎ

昭和26年にこの道に入り、10年後に大勝軒を開店した山岸さん。一日中働き続け(朝5時~深夜までの作業)、試行錯誤の末たどり着いた味。それを守り通すための苦労は並大抵のものではありませんでした。

(ご主人)これみんな仕事の後です。曲がっちゃって。網を持ったその網の形に、(手が)。
(ちいさん)はー手が!網もってこうやる。
(ご主人)つづら織りというかつづら織りですよ。
(ちいさん)(ご主人の手の先が、微妙に)全部違う方向を向いてるよ。。。これが、ラーメン道、何十年の手だよ!はー!
(ご主人)みんな仕事を一生懸命やる人はね、みんな指が曲がっちゃう。

手が曲がっているのは、一生懸命やっていた証拠。誇らしげな山岸さんの顔と、それに感動するちいさんの顔がありました。

(ご主人)あー、おいしかったって、ゆってねー、”ごちそうさま”って帰って行くそのお客さんのね、その声をね、もらいたい!
(ちいさん)あー、じゃーやっぱり、喜んでもらう、お客さんに喜んでもらって、精神がこれ(中華そば)なんですね。きっと。

中華そばが出てきました。どんぶりの中には、ゆでたまごを輪切りにしたもの・なると巻き・のりが入り、真ん中にシナチク、そして手前にチャーシューがのっかる、オーソドックスなラーメンです。

(ちいさん)いただきます!(中華そば 630円)いやー。。。ずるずるるる。。。ふーーん!すごいし、ものすごくおいしいんだけど、食べきれない。

豊かではない時代から普通のお店の2割り増しという麺の量に、特大のチャーシュー。それを続けるため働き過ぎた山岸さんは、厨房に立てないほどに体を壊します。実はご主人を支え続けた奥さん(二三子さん)も若くして亡くなっていました(昭和61年9月逝去、享年52)。

(ちいさん)お父さんは軍人で戦争負けたけど、山岸さんラーメンという戦争で、これだけ戦ってきたんだから、もう、ほんとにごりっぱですよねー。
(ご主人)女房はねー、壮烈なる戦死って言ってるんです。。。こんな小さい時から知ってたから。

今年(2007年)3月20日、45年もの歴史に幕を閉じた大勝軒、閉店(平成19年3月20日)の際には、ご主人が育てあげ、暖簾分けしたお弟子さんたちが、日本全国から駆けつけました。若者たちを一杯のラーメンで満腹にしてあげたい。その思いで大変な努力を続けてきた山岸さん。そして、伝説の店となった大勝軒。昭和の風景がまた一つ消えて行きました。


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「昭和の記念碑」

もはや戦後ではない。そう言われ始めた昭和30年代。日本人が自信と誇りを取り戻すきっかけとなったあの電波塔が完成します。(東京タワー:昭和32年6月起工 昭和33年12月竣工)

東京タワー:港区芝公園

元どび職人、桐生五郎さん(75)にお話を聞きました。
どんな現場でも一番高いところでがんばったという桐生五郎さん。名古屋のテレビ塔建設を成功させた腕を買われ、東京タワー建設では若者たちのリーダーとして参加しました。

(ちいさん)ここが桐生さん、真下になりますよねー。
(桐生さん)そう。

ちいさんと桐生さんが上を見上げると東京タワーがそそり立っています。

(ちいさん)今でも立つとこう、当時のこと思い出すことあるでしょ。
(桐生さん)ちらっとね。
(ちいさん)どの辺を自分でも行ったなっていうのあります?
(桐生さん)自分で全部手かけたからねー。
(ちいさん)あー、そうなんすか!
(桐生さん)ええ!一段づつ!

(ちいさん)一番上ってどうやって上がるの?
(桐生さん)どうやって上がるって、手で上がるんですよ。
(ちいさん)手で上がるったって、何かあるんですか?
(桐生さん)う~ん。だから、斜めのあれあんでしょ?あそこんとこに足掛けて、上にこう、開いてんですよ。そこを、こうやって上がる。

足を掛ける場所があるそうですが、でも・・・。

(ちいさん)はー。怖くなかったですか?これ。
(桐生さん)んー、だから、毎日やってんとねー、怖いっていうのはなくなっちゃうね。まいんち、まいんち楽しみ!
(ちいさん)たのしみ?
(桐生さん)少しづつ上がるのがね。これは、もう職人名利に尽きるっていうような仕事だったね!

高さ333メートル、未知の世界に挑んだ桐生さん。その時支えとなったのは、完成を待って結婚すると決めていたみさをさんの存在でした。

ちいさんと桐生さん、そして、奥様のみさをさんの3人は、特別展望台(250メートル)へやってきました。

(桐生さん)仕事に対する情熱を、みんなが、こう、ぶつけてできたと思ってるんだよね。だから、わたしん中ではもう、これ建てたおかげでね、もう、このためには自分の誇りと思ってる。
(ちいさん)今はなんか、ご自分のうちのね、屋根を修理するのも怖いんですってね。
(奥様:桐生みさをさん、72歳)上らないもん。
(ちいさん)へへへへへ。
(奥様)わたしが上るんだもん。

「まさしく戦後に日本が先進国に追いつけ追い越せ、いわんばかりに我々の勢いをもって、立てたこの東京タワー(世界一の自立式鉄塔”333メートル”)。素晴らしい話がたくさん聞くことができました。まさしく、これは昭和のシンボルですよねー!」

昭和33年12月23日オープンには、1.5キロ離れた浜松町駅まで行列ができたそうで、現在まで延べ、1億5千万人以上が来訪しているそうです。

世界一の電波塔、東京タワーの完成。日本人に誇りを蘇らせる大きな出来事だったといいます。昭和を生きた人々のモニュメント。東京タワーが完成したあの時、それは戦後から再出発した日本という国の青春時代だったのかもしれません。

なつかしさと憧れと、明日もちいさんが昭和30年代の思い出をたどります。

<東京タワー関連ページ>
東京タワー夜景
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