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↑美容と健康のサプリ情報館のリポートです。
今日は、ちいさんが、「昭和の風景(ブリキのおもちゃ)」を探して散歩します。
今日のちい散歩は、表参道駅にやってきました。
子供の頃、友達と遊んでいた時も、両親の傍らで1人で遊んでいた時も、いつもいっしょにあるもの。それは、小さな手に握られた小さなおもちゃ。中でも、ブリキのおもちゃと聞くだけで、わくわくしてしまう方も多いのでは?しかし、実は、このブリキのおもちゃが、戦後の復興の鍵を大きく握っていたとも言うのです。今日は、懐かしのブリキのおもちゃを訪ねます。
「昭和の風景を求めて ブリキのおもちゃ」
「かわいいですよねぇ!アトムがどうぞ!って言ってますよ(ビリケン商会)。」
店内に足を運ぶと、忘れていた思い出が蘇ってきます。明治の頃、日本にやってきたというブリキ。錫をメッキした薄い鉄板を、何故日本でブリキと呼ぶようになったのかは諸説ありますが、プラスティックにはないぬくもりが感じられます。
「懐かしいねぇー、これは、もっと、古いもんでしょ?これ(ブリキ金魚のじょうろ、4000円)は、どのうちのお風呂場にもあったものでしょ?昭和20年代。。。これは、どこのうちの赤ん坊も、お風呂でお湯の中に入れて、シャーってやって、お湯出してね。。。」と、ちいさん、うれしそうです。
昭和に入ると、ブリキのおもちゃの生産は急増。いつしか日本は、質・量共に、世界一、二を争うブリキのおもちゃの生産国となりました。
「戦争で、もう日本、丸焼けになっちゃって、残っていた技術っていうのが。。。やっぱり、なんにもないところから、何かを作るってことになりますよね。そうすると、当時は、輸出産業の花形っていうと、おもちゃと繊維になるんですよ。。。物凄く、だから、外国には出てますよ。」、と、ビリケンの社長(三原宏元さん、54歳)さん。
当時、アメリカでも安くて質の良いおもちゃの供給が不足していました。アメリカが食料援助の見返りとして、求めたのが、日本製のおもちゃでした。昭和22年に自由貿易が再開されると、日本の輸出産業の花形としておもちゃが大量に作られました。ちなみに、当時この輸出品にはGHQの命令で、「Maid in Occupied Japan(占領下の日本製)」の文字の明記が義務付けられました。外貨を稼いでくれるブリキのおもちゃは、日本の復興を支え、世界と渡り合える力を再び与えてくれたのです。
<おもちゃの輸出高>
昭和22年 凡そ4000万円
昭和23年 凡そ12億円
昭和24年 凡そ36億円
昭和25年 凡そ44億円
他にも、馬に乗った紳士(明治時代、30万円)、米軍ジープ(25000円)、アメ車(35000円)が、紹介されていました。
<ビリケン商会関連ページ>
ビリケン商会のソフビキット キンゴジを作る
ビリケン商会のレッドキングを作る
怪獣王
NEOMART - Kawaramachi
マッシヴログ
<ブリキの金魚じょうろ関連のページ>
絵手紙HP
「日本の復興を担った ブリキおもちゃ職人」
ブリキのおもちゃが全盛期を迎えた昭和30年代、子供たちをとりこにした伝説の職人さんがいるといいます。そこでちいさん、今度は、その伝説の職人さんのところへやってきました。
「こんにちは、どうぞよろしくお願いします。」、ちいさんもいつも様子とは少し違います。
その高い技術から神の手を持つ職人とまで呼ばれた、串田恭男(76歳)さん。彼が手がけた作品は、ワンダラー玩具(1体の値段が、1ドル=当時360円の玩具)として、アメリカの子供達に値段を越えた驚きを与えました。
「(串田さん)日本人の子供を喜ばせるということは、いっさいない。。。(ちいさん)意識としては、アメリカ人の子供達に喜んでもらえるという・・・(串田さん)そうです。そういうことです。。。どうも、アメリカ人っていうのは、ユーモアが好きのようだ、と!。。。バイヤーとか、進駐軍とか、それから、アメリカのディズニーの映画とか、ああいうのを非常に見ましてね。自分の感性で、それを感じとって、こういうもんが受けるんではないかと。。。」
<串田さんの作ったおもちゃの中で特筆すべきもの>
ピエロの一輪車乗り(昭和30年)当時としては珍しい一輪車のおもちゃ。
楽団員のデザイン画(昭和31年)表情と服装の色合いが特徴的。
パイレーツ(昭和32年)首の長さと表情が特徴的。
異なる文化の子供達に喜んでもらう。少ない情報の断片をつなぎ合わせ、串田さんはアメリカを理解しようとします。戦争で全てを失ってしまった日本。その中で残った数少ない世界に誇れるもの。日本の技術が、再び世界に認められたきっかけは、どの国でも変わらない素直な子供達の目だったのかもしれません。
ピエロのローラースケーター(一番下の方)(昭和31年)
「(ちいさん)おもしろいねぇ!(串田さん)いいでしょ!」、このおもちゃは、右足を蹴り上げる度に方向転換するおもちゃ。右足を軸にして左足のローラーで半円を描くように方向転換します。この斬新な発想が、アメリカで大ヒットします。
ダンディー(昭和31年)
(串田さん)アメリカ人は当時ね、日本では食うや食わずだったのにね。肉を食って、腹がこうに出っ張って、頭の寂しいのが必ずいると。。。子供達は必ず見てるということで、やったんですよ。
(ちいさん)今や日本人が・・・。
(串田さん)そうそうそう!
(ちいさん)なんとかシンド・・・。
(串田さん)シンドロームとかなんとか言ってましたね。
(串田さん)あくまでも、子供じゃなくて、親が連れてって買うんですよね。
足長ピエロのバイオリン弾き(昭和30年)
足を長くしたことが特徴。靴を大きくすることでバランスを維持しました。
パイレーツ(昭和32年)
長くした首を動かしながら進む。
親が見て納得できる品質。子供の心を捉えて常に離さないもの。串田さんが常に心がけていたのは、誇張した姿と動きの意外性。彼が生み出した作品は時代を超えて、今でも新鮮な感動を与え続けてくれます。
「(ちいさん)ブリキのおもちゃっていうのは、どうしてなくなってしまったんですか?(串田さん)ニクソンショックって言って、360円が取っ払われちゃった。360円なのが260円になり。。。3割減、4割減になって言って。。。そこへもってきて、アメリカの消費者団体が、ブリキのおもちゃは危険だ、子供が怪我する。。。ですから、ブリキは輸出しちゃいけない。。。そういう時代で、ブリキのおもちゃっていうのは消えてっちゃう。。。」
日本の復興を支えたブリキのおもちゃ職人にとっての昭和とは?
(串田さん)戦後の荒廃した日本を、少しでもいくらかでも、立ち直らせる、経済大国になる基礎は築いたんですよ、と。
(ちいさん)ほんとにそうですよね。
(串田さん)そうですよね。で、それが、年をとると伴にポイされるこういう日本ってのは、非常に、不愉快ですね。
(ちいさん)ほんと、そうですね。子供たちにこれだけ夢を与え、楽しんでもらったっていうことが、やっぱり素晴らしいことをなさったわけだよね。ほんとにそういう意味ではこの人形の一つ一つの顔見ても、哀愁があってなんか悲しき、少しうら悲しくなりますね。
小さなおもちゃに託した復興への大きな夢。日本が復興する前に、アメリカ人の子供のためにたくさんのおもちゃを作った話。今、過ごしているこの時代も小さなおもちゃによって、支えられてきたのかもしれません。
<ブリキのおもちゃ関連ページ>
ビンテージ玩具の世界
ブリキのおもちゃ 『珍玩童心』
ブリキのおもちゃ屋テツの放言
レトロなパブ風インテリアでキメよう♪
わが家のブリ記
<博物館>
北原照久のおもちゃ博物館
The tiny toy museum
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子供の頃、友達と遊んでいた時も、両親の傍らで1人で遊んでいた時も、いつもいっしょにあるもの。それは、小さな手に握られた小さなおもちゃ。中でも、ブリキのおもちゃと聞くだけで、わくわくしてしまう方も多いのでは?しかし、実は、このブリキのおもちゃが、戦後の復興の鍵を大きく握っていたとも言うのです。今日は、懐かしのブリキのおもちゃを訪ねます。
「昭和の風景を求めて ブリキのおもちゃ」
「かわいいですよねぇ!アトムがどうぞ!って言ってますよ(ビリケン商会)。」
店内に足を運ぶと、忘れていた思い出が蘇ってきます。明治の頃、日本にやってきたというブリキ。錫をメッキした薄い鉄板を、何故日本でブリキと呼ぶようになったのかは諸説ありますが、プラスティックにはないぬくもりが感じられます。
「懐かしいねぇー、これは、もっと、古いもんでしょ?これ(ブリキ金魚のじょうろ、4000円)は、どのうちのお風呂場にもあったものでしょ?昭和20年代。。。これは、どこのうちの赤ん坊も、お風呂でお湯の中に入れて、シャーってやって、お湯出してね。。。」と、ちいさん、うれしそうです。
昭和に入ると、ブリキのおもちゃの生産は急増。いつしか日本は、質・量共に、世界一、二を争うブリキのおもちゃの生産国となりました。
「戦争で、もう日本、丸焼けになっちゃって、残っていた技術っていうのが。。。やっぱり、なんにもないところから、何かを作るってことになりますよね。そうすると、当時は、輸出産業の花形っていうと、おもちゃと繊維になるんですよ。。。物凄く、だから、外国には出てますよ。」、と、ビリケンの社長(三原宏元さん、54歳)さん。
当時、アメリカでも安くて質の良いおもちゃの供給が不足していました。アメリカが食料援助の見返りとして、求めたのが、日本製のおもちゃでした。昭和22年に自由貿易が再開されると、日本の輸出産業の花形としておもちゃが大量に作られました。ちなみに、当時この輸出品にはGHQの命令で、「Maid in Occupied Japan(占領下の日本製)」の文字の明記が義務付けられました。外貨を稼いでくれるブリキのおもちゃは、日本の復興を支え、世界と渡り合える力を再び与えてくれたのです。
<おもちゃの輸出高>
昭和22年 凡そ4000万円
昭和23年 凡そ12億円
昭和24年 凡そ36億円
昭和25年 凡そ44億円
他にも、馬に乗った紳士(明治時代、30万円)、米軍ジープ(25000円)、アメ車(35000円)が、紹介されていました。
<ビリケン商会関連ページ>
ビリケン商会のソフビキット キンゴジを作る
ビリケン商会のレッドキングを作る
怪獣王
NEOMART - Kawaramachi
マッシヴログ
<ブリキの金魚じょうろ関連のページ>
絵手紙HP
「日本の復興を担った ブリキおもちゃ職人」
ブリキのおもちゃが全盛期を迎えた昭和30年代、子供たちをとりこにした伝説の職人さんがいるといいます。そこでちいさん、今度は、その伝説の職人さんのところへやってきました。
「こんにちは、どうぞよろしくお願いします。」、ちいさんもいつも様子とは少し違います。
その高い技術から神の手を持つ職人とまで呼ばれた、串田恭男(76歳)さん。彼が手がけた作品は、ワンダラー玩具(1体の値段が、1ドル=当時360円の玩具)として、アメリカの子供達に値段を越えた驚きを与えました。
「(串田さん)日本人の子供を喜ばせるということは、いっさいない。。。(ちいさん)意識としては、アメリカ人の子供達に喜んでもらえるという・・・(串田さん)そうです。そういうことです。。。どうも、アメリカ人っていうのは、ユーモアが好きのようだ、と!。。。バイヤーとか、進駐軍とか、それから、アメリカのディズニーの映画とか、ああいうのを非常に見ましてね。自分の感性で、それを感じとって、こういうもんが受けるんではないかと。。。」
<串田さんの作ったおもちゃの中で特筆すべきもの>
ピエロの一輪車乗り(昭和30年)当時としては珍しい一輪車のおもちゃ。
楽団員のデザイン画(昭和31年)表情と服装の色合いが特徴的。
パイレーツ(昭和32年)首の長さと表情が特徴的。
異なる文化の子供達に喜んでもらう。少ない情報の断片をつなぎ合わせ、串田さんはアメリカを理解しようとします。戦争で全てを失ってしまった日本。その中で残った数少ない世界に誇れるもの。日本の技術が、再び世界に認められたきっかけは、どの国でも変わらない素直な子供達の目だったのかもしれません。
ピエロのローラースケーター(一番下の方)(昭和31年)
「(ちいさん)おもしろいねぇ!(串田さん)いいでしょ!」、このおもちゃは、右足を蹴り上げる度に方向転換するおもちゃ。右足を軸にして左足のローラーで半円を描くように方向転換します。この斬新な発想が、アメリカで大ヒットします。
ダンディー(昭和31年)
(串田さん)アメリカ人は当時ね、日本では食うや食わずだったのにね。肉を食って、腹がこうに出っ張って、頭の寂しいのが必ずいると。。。子供達は必ず見てるということで、やったんですよ。
(ちいさん)今や日本人が・・・。
(串田さん)そうそうそう!
(ちいさん)なんとかシンド・・・。
(串田さん)シンドロームとかなんとか言ってましたね。
(串田さん)あくまでも、子供じゃなくて、親が連れてって買うんですよね。
足長ピエロのバイオリン弾き(昭和30年)
足を長くしたことが特徴。靴を大きくすることでバランスを維持しました。
パイレーツ(昭和32年)
長くした首を動かしながら進む。
親が見て納得できる品質。子供の心を捉えて常に離さないもの。串田さんが常に心がけていたのは、誇張した姿と動きの意外性。彼が生み出した作品は時代を超えて、今でも新鮮な感動を与え続けてくれます。
「(ちいさん)ブリキのおもちゃっていうのは、どうしてなくなってしまったんですか?(串田さん)ニクソンショックって言って、360円が取っ払われちゃった。360円なのが260円になり。。。3割減、4割減になって言って。。。そこへもってきて、アメリカの消費者団体が、ブリキのおもちゃは危険だ、子供が怪我する。。。ですから、ブリキは輸出しちゃいけない。。。そういう時代で、ブリキのおもちゃっていうのは消えてっちゃう。。。」
日本の復興を支えたブリキのおもちゃ職人にとっての昭和とは?
(串田さん)戦後の荒廃した日本を、少しでもいくらかでも、立ち直らせる、経済大国になる基礎は築いたんですよ、と。
(ちいさん)ほんとにそうですよね。
(串田さん)そうですよね。で、それが、年をとると伴にポイされるこういう日本ってのは、非常に、不愉快ですね。
(ちいさん)ほんと、そうですね。子供たちにこれだけ夢を与え、楽しんでもらったっていうことが、やっぱり素晴らしいことをなさったわけだよね。ほんとにそういう意味ではこの人形の一つ一つの顔見ても、哀愁があってなんか悲しき、少しうら悲しくなりますね。
小さなおもちゃに託した復興への大きな夢。日本が復興する前に、アメリカ人の子供のためにたくさんのおもちゃを作った話。今、過ごしているこの時代も小さなおもちゃによって、支えられてきたのかもしれません。
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ブリキのおもちゃ 『珍玩童心』
ブリキのおもちゃ屋テツの放言
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